表記について

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7

冷えた夜風が、二人の間を摺り抜けるように窓から一瞬強くそよぎ入りーー。
シキの哀切の表情を隠すように、長く頬に掛かる前髪を揺らした。
「…その後、完全に喪心した私はーー国を出ました」
服を掻き開いたシキの手にぐっと力が篭り、もう一度その襟を手繰り寄せる。
「ーーいえ…。竜が去った後、目が醒めた私の前にはもはや……荒野にも等しい光景が拡がっていました」
服の布地を経てーーまるで、胸の傷を握り締めるように。
「竜に受けた傷は自然と癒え、死ぬことすら叶わなかった私はーー」
シキがぐっと言葉を呑み、握った手を震わせ俯く。
その仕草をじっと見守る、姫の表情も曇る。

ーー当時、彼はどれほどの絶望に……哀しみに襲われたのだろう。
その思いを、どれほどの長い間……持ち続けて来たのだろう。
いっそ、命を落としていた方がーーそう思う事もあっただろう。

「宛もなく彷徨い、もうこのまま……。そう思った時でした」
シキの、哀しみを払えぬままにも穏やかさを取り戻した顔が上がり……視線が姫のもとへ戻された。
「何処までも拡がる海がーー見えて来たのです」
彼の瞳は、静かに波打つ水面を見守るように柔らかく深く澄んでゆく。
その真っ直ぐな視線を、姫は何故かーーいや、きっと……逸らせず受け止める。
「山に囲まれ、ただ国に尽くす事を考え育った私には……。何処までも広がる海は……、そしてその先に在るものが、新たな生をくれるような気がしました」
切れ長の瞳が、その中に映すものを想いで包み微笑むように緩む。
ーーなんと、美しいのだろう。
私に、生きる希望をくれるもの……。
「ーーそれでも、その際此処へ至るまでの行程はまた……困難なものでした」
再び語り出すシキは、身の回りに纏う穏やかな空気に区切りを付けるように表情を結ぶ。
「私は、ある商船に同乗し出奔しました。ーーこの国の豪商の船でした」
さりげなく、姫の胸元へ視線を移す。
その意味が分からないままにも、姫もそこに在るものに手をーーそして。
「……その後、航海する事数日のうち……突然穏やかだった海が荒れました。竜が現れた事による余波なのか、それとも…」
今度は、姫が自らの手をぎゅっと握り締める。
その手の内には……。
「船は転覆、私達は散り散りに放り出され……。再び気が付いた時には一人、浜に打ち上げられていました。またも、一人で……」
シキが歩み寄り、姫の肩にそっと手を置く。
そして僅かに込められた力の意味を、姫の瞳が訪ね掛けるようにーーシキの深い眼差しの先にある記憶を覗き込もうとする。
「ーー途中、船の中で……聞きました。国元には一人、まだ幼い息子が居ると…」
何も言わず、ただ手に力を込める姫の身を、シキの両腕がふわりと包んだ。
「ーー名は……、イオリ……」
シキの胸の中で、姫がぐっと息を呑んだ。
「……イオリ……さま…?」
やっと、それだけ。
震えながら呟き、崩れかかる姫の身をーーシキが気持ちごと支えるように抱き締める。
「彼もきっと……、以来、彼なりの重みを抱え、苦難を越え……。そして此処まで来たのでしょう」
姫が震える手でぎゅっと握るものは、イオリに渡された一双の指輪。
"両親の形見です"ーー確かにそう言っていたもの。
思い掛けず全て繋がった、その意味はーー?
「ーー全ては、あの竜だけではなく……。この私の持つ運命自体も……」
姫の頭を抱え込むように手を回し、ぎゅっと目を瞑りーー。
「……すみません……」
ただ、それだけ…誰ともなく口にした。
その声は低く、彼には珍しく僅かに震えていた。
突然知らされる事実に、何と答えて良いかも分からない姫には…ただ頭を振る事しか出来ない。
決して、彼が悪い訳ではない。
それでもそう口にせずには居られなかったのであろう、複雑な想いを胸に溜め言葉を詰まらせるシキの胸に身を寄せる姫にはーー。
胸の"鼓動"の無い、シキの懐の温もりの中。
その事実が、彼がそれ以上何を言わずとも……彼の中の空虚な心を表しているように感じられた。

「ーー私は、"竜に関わった者"として、限りなく竜に生かされる者として、此の国では聖人ですらあるかのようにも見られ、勿体ない程の厚遇を受ける事となりましたが……。私自身、此処にすら居てはいけないのかもしれない……そう思う事も度々あります。……けれど、それでも……」
シキの体が離れ、再び視線が合わされる。
とても優しく、そして哀しい眼差し。
「例え私にその資格が無くとも、私の終りの見えないこの生が続く限り見守りたいーーいつしか愛しくさえ思うようになっていた……かけがえの無い方を」
その視線の先に、間違いなく捉えるものは。
「ーー姫様。あなた様を……」

「……!」
びくりと肩を動かし、一旦見開かれた姫の目が泳ぎーーつと視線が逸れた。
シキはそれも予測していたかのように、その姿を瞳の中に捉えたままふっと寂しそうな笑みを零す。
「……既にあなた様は、あなた様ご自身で道を決められているーー。そうでしょう?」
姫の遠慮がちな視線が、答えを告げるようにシキの視線上に戻る。
「……ごめんなさい……」
姫のその言葉は、それでいてシキの質問の意を辛くも肯定するものだった。
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