表記について

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8

目を伏せ俯く姫の頬に、シキの手がふわりと触れた。
それはまるでーー風のように優しく、さりげなく。
ーーけれど、とても暖かい。
「ーー何故、謝られますか?」
「……シキ……」
シキの手は動かずとも、あたかも彼に引き上げられるようにゆっくり顔を上げる姫の瞳に。
いつもと変わらぬ、穏やかで優しい笑顔が映る。
「あなた様と…イオリ殿が共に幸せで在られるのならーー。それは私にとっても、悦ばしい事でもあるのです」
そう言いながら細められる彼の眼の、鶯色の瞳が……まるで穏やかな海のようで。
彼の言葉の根本には、きっとーー、と思う姫の表情は晴れない。
そう、雲行きの奇しい海上に拡がる空のように。
ーーきっとーーシキはイオリの歩んできた道に、責任も感じてしまっている。
「……ですから……そんな顔をしないで下さい。ーー困りましたね」
ふっと苦笑するシキの仕草は、やはり普段よく見るものだった。
ただそれが……姫の心をさらに戸惑わせる。

「ーーシキ」
一度目を泳がせ、もう一度シキを見詰め直す姫の瞳は、改めて彼の姿を真っ直ぐ捉える。
「……はい…?」
シキの手がそっと離れようとするところを、姫の手がやんわりと、けれどしっかりと引き留めた。
二人の目と目が合う高さに、両手で包み込み握る。
ーーそして。
「ーーもしわたくしに……。あなたの苦しみが…少しでも癒せるなら……」
握った手ごと抱え込み、シキの胸にもたれ寄りかかる。
「……姫…様……」
姫の思いがけない行動にシキがぐっと息を呑み、少しの沈黙が流れた。
そしてその胸元、ごく至近で顔を上げ自分を見詰める姫の瞳に、じっと視線を合わせていた彼は……。

その先へとゆっくりと顔を近付け、そっと目を閉じる姫のーー。
頬にそっと、軽く口づけた。
「ーー姫様」
呼ばれて反射的に、そして静かに目を開けた姫の目に。
更にいつものように、真っ直ぐな瞳で覗き込むシキの顔が飛び込んでくる。
「……いけませんね。どうかご自身のお気持ちを大切になさらなくては」
そして、ふっと口の端を上げて微笑う。
「シキ……」
姫の瞳が潤み、困ったような表情に曇りゆく。
ーーどうすればいいか、わからない。
まるで、そう言っているようで。

……困った。
いつも教養の時間に於いて、そういった質問には慣れている筈なのに。

「ーーですが……」
姫の手をやんわりと解かせたシキの手が、今度は思い切り開かれーー姫の身をしっかりと、けれどふわりと優しく包み込んだ。
「もし、あなた様が哀しむような事あれば……その時は」
再び胸元で視線を上げる姫のーーぽろりと零れ落ちた涙を掬い取るように、もう一度頬に口づける。
姫の瞳が僅かに揺れた。
「ーーその時は、私が……。あなた様をきっと幸せにします」
言い切ったその言葉と、強い光を奥に称えた瞳に、僅かに頬を染めながら……姫はゆっくりと彼の胸に頬を預けた。
ーーそこに鼓動は無くとも、暖かい。
彼の胸の奥にはきっと……彼自身今まで、苦難を乗り越え、迷い傷ついてきた分の優しさと……培われてきた強さが秘められている。
そんな人に今まで、傍で見守られて来たのだ。
自分の事ばかり考えて……、何も、気付かなかった。

「……この先、如何なることが在ろうと……。私はーーあなた様を見守り続けています……」
彼の腕に僅かな力が込められ、更にぎゅっと抱き締められた姫の耳に届くその言葉は……。

ーーどんなことがあっても、私はあなたの傍に……。
先のひととき、イオリが告げたものとーーきっとその意味は同じだった。

縋る胸の服の布地をぐっと握り、そしてどうしても止められなくなってきてしまった涙を流しながら……。
「……ありがとう……」
やっとそれだけ、そっと呟く姫の言葉に。
シキもただ胸を預け、細い肩を抱き留め続けるのだった。

窓から吹き込む風は、次第に冷えてゆくもーー。
二人のーー少なくとも姫の身と、そして心は暖かさに包まれていた。

ーーー春の夜の、ただ静かに過ぎゆく優しい時間ーーー。

やがて普段通りに部屋を後にしたシキと、そして部屋の中でその後姿を見送った姫は……。
互いに暫く、ただ静かにその方向を見詰め合い佇んでいた。
端から見れば、きっとそんな二人の姿は……。

けれど、当の二人がーーそれぞれに決めた道は、行く先が違っていて。
これでいいのだと、互いに微笑み頷き……。
シキは通路の先へ、姫は部屋の窓に足を進め、視線の先の星の瞬く空を、その胸にそれぞれの想いを抱き眺める。

どこか気持ちが晴れたような面持ちで見上げる姫のその身を、風が巻き込むように吹き髪を揺らした。
天に手を伸ばせば、掴めそうな程に満天に拡がる星空へーー静かに掌をかざしてみる。
これから自分の歩む先、どれ程の幸せと…そして困難も待ち受けているのだろう。
けれど、大切に想う二人が居てくれればきっとーー。

それは、贅沢な考えかも知れない。
けれど、許される考えなのかも知れない。
そうであって欲しいと、きっとそれこそ欲に願いながらーー。
その身の周りを包む風が吹き去らぬ内に繋ぎ留めようとするように、顎を引き自身の身をそっと抱き締める。

そして再び顔を上げた姫の表情は、ただ囲われる"籠の鳥"のようなものではなく……。
自分の意志で今から飛び立とうとする鳥のように、真っ直ぐに夜空を見上げていた。

ーー数日後、その空が荒れ、こうして窓から見上げる事も叶わなくなるのがまるで嘘のような……。
空気の澄んだ、穏やかな夜更けだった。

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