表記について

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9

長くも一瞬に感じる濃密な夜を彼と過ごして、そして朝になって‥‥。
目が覚めると、すぐ傍に居る時と、すっかり居ない時もある。
頭の下に腕を敷いていてくれる時は彼の温もりに、そうでない時は僅かにでも感じる温もりに包まれながら。
少し気怠さを感じながら、微睡む寝覚めの時間。

「——おはよう、セツナ」
今朝は傍に居てくれた。
此処は大きく人口も多い領都の街の宿、常に静かなカサディスの自宅とは違う。
外から聞こえて来る街の騒めきに、自然と目が覚める。
うっすらと目を開けると、こめかみの上辺りから囁くように降りて来る穏やかな声。
それと共に、髪をゆっくり優しく撫でてくれる大きな手。
釣られるように顔を動かせば、目を細め柔らかく微笑んでいる彼の笑顔。
「‥‥おはよう、‥‥アツシさん‥‥」
相変わらず照れ臭い気持ちが抜けない、けれどとても安心できる瞬間。
「‥‥すまない、つい‥‥。駄目ですね、私は」
「——ううん、私も‥‥‥」
つい言いかけて、気付いて呑み込んだ言葉。
言わずに留められて良かった‥‥と、思ったものの。
「————?」
「‥‥‥意地悪‥‥」
どうやら察してしまった彼に、とある問いかけを耳元で囁かれ、俯き縮こまりながら目を背けた。
そうして抵抗してみたところで、やはり頭の上でくすくすと笑われてじっと見詰められるだけ‥‥。
傍に居られて嬉しいものの、こういう時はついどこかへ逃げ出したくなる。
彼の方がやはり大人なのだと自分の中で納得させながら、けれどやはりどこかで少しでも抵抗したくなる。
「、アツシさんたら‥‥」
背中を向けて、ぼそりと口にしてみるも。
「——セツナ」
今度は、さっきまでとは違う低い声‥‥勿論、耳元で。
「可愛い」
「‥‥えっ‥?」
そしてそれが、ただ低いだけではなく。
更にふわりと肩口を抱くように回された腕にも、熱を帯びている事に気が付いてもーーもう遅い。

それからまた暫しの時間、体に籠った熱が引くまで‥‥彼の腕の中から解放されることは無かった。



「セツナ、すまない‥‥」
汗の滲む額の前髪を掻き分けられながら、彼がそこに軽く口付ける。
「私も、もう少し自重しなければ‥‥」
そっと上目で彼の表情を覗いてみると、少し困ったような色を浮かべているのが見て取れる。
「‥‥ううん‥‥」
私も、何処かでそれが嫌ではない気持ちを持っているのだろう。
実際、特に抵抗する気も起らないのだから。
彼が冒険に出ている時には全力で護ってくれているのは分かっているし、それに‥‥。
こうして想いに身を任せて幸せに浸っていても、私が覚者という立場である以上、いつどんな危機に遭うかも分からない。
――そう、遠い記憶の世界で見た、あのひと達のように‥‥。
そう考えると思わず、ぎゅっと彼の背に手を回して縋り付いてしまう。
「‥‥セツナ?」
一瞬驚いたような、けれどやはり落ち着いた声で、すぐさま彼が問いかけて来る。
「——ううん、‥‥ううん‥‥」
何でもない、と否定しかけて、やはり否定しきれない。
一人で自問自答して返答に窮してしまっていると、今度はただ優しくふわりと包んでくれる彼の腕。
「‥‥今日もう一日、ゆっくりさせて貰いましょうか」
「‥‥え?」
「本当は此処へ来たからには、直ぐに任務を負うなどの選択肢もあるのでしょうが‥‥。もう一日、休みましょう」
「——あ‥‥」
直ぐそこに在る彼の顔に視線を上げれば、正に”護り人”とも云える彼の至って真面目な表情にぶつかる。
どこか心配するような、そしてはっきりと強い意思を持った真っ直ぐな瞳。
また違う意味でどきりとする、それでいてやはり安心する強い眼差し。
「‥‥はい、ありがとう‥‥」
ついお辞儀をするように頭を下げると、またも、ふふという微かな笑い声。
優しく頭を撫でてくれる手に、ゆっくりと安心感を貰いながら。
「‥‥そういえば‥」
「はい?」
――つい、あのことを訊いてみたくなった。
「アツシさん、私が初めて此の街へ来た時‥‥」
「ええ」
「確か、裏通りの方の店を探している時に‥‥あの‥‥」
「何か?」
相変わらず、くすくすと笑い声を乗せているように柔らかく響く声。
もう、問いの内容が分かっているんじゃないかとも思ってしまいながら‥‥。
「——もしかしてちょっと、笑いませんでした?」
ずっと私の髪を撫でていた、彼の手がぴたりと止まった。
やっぱり、変な事を訊いたかな‥‥と思いながら、恐る恐る上目気味に視線を上げてみる。
面食らったような顔をしていた彼が、また吹き出すようにクスと笑った。
「‥‥ええ、あなたが‥‥可愛かったから」
「——!」
覗き込むように更に顔を近付け、彼が今度はにやりと笑う。
色んな意味でどきりとして、思わず返事を失ってしまった。
「よく分かりましたね、隠していたつもりだったのに」
更に目を細められ、真っ直ぐ見ていられなくなる。
これでは、自分でただ墓穴を掘っているだけのような気がしてきた。
「‥‥う、えっと‥‥‥。もう‥‥」
けれど今度は、さっきのような事は言うまい、と思い口を噤む。
「‥‥ふふ」
そうしていると、彼の方もただ黙ってふわりと抱きしめてくれた。
――もう、完全に彼には何でもお見通しだ‥‥。
そう思って小さく溜息を吐きかけた時、急激に空腹を感じて脱力した。
「——あの、お腹‥‥空きましたね」
「‥‥ああ‥、そうですね。もう昼近いかもしれない‥‥食事にでも行きますか?」
「そうですね‥‥」
気が付いてみれば、何だかんだで、もう半日ほどこうしている‥‥。
ちょっとゆっくりし過ぎているような、けれど短く感じられるような。
彼と居ると、ついその温かさに甘えていたくなるのも、きっと私の本心だろう。
もうすぐ多分‥‥、また慌ただしい生活が始まる。
またあの島へ行くことになるのか、それとも竜を追う任務を貰えるのか――それは分からないけれど。
そうなる前に少しの休息も必要なのだと、無理矢理自分の中で納得させる。

寝台から身を起こし出た彼が、此方に背を向けて服を身に着けている間。
「——そういえば、昨日の‥」
「はい‥‥?」
彼の言葉に耳を傾けながら、私もつい掛布を胸元に手繰り寄せつつ上半身をゆっくりと起こす。
「昨日来てくれていた、”リュウ”なんですが」
「ああ‥‥、はい」
綺麗な黒髪を持つ、体格のいい長身の‥‥彼の親友とも云えるポーンの男性。
初めて会って、少し言葉を交わした程度だけれど、よく覚えている。
「もうすぐ、家族が増えるんですよ」
「‥‥え‥‥?」
彼は窓の外へ、遠くを見るような視線を向けながら‥‥どこか温かい笑みを浮かべている。
リュウさんというひとには、家庭があるんだ‥‥それを彼も嬉しく思っているのだろう。
「そうなんですか‥‥」
私も彼の柔らかい表情を見ているうちに、頬が緩む。
と、彼がそのままの顔で此方を振り向いた。

「——こんな私でも、いつかは‥‥」
一瞬、心臓が今此処に在れば、泊まるんじゃないかと思うくらいどきりとした。
‥‥アツシさんと、私と‥‥‥の‥‥?
直ぐに言葉を出せない私に、彼の表情が少し悲しげにも感じる戸惑いを帯びた気がした。
「いえ、何でも‥‥」
「——ううん」
彼とずっと一緒に居る事、そして彼と一つずつ経ていく物事は‥‥私も決して嫌ではない。
私の本心からの気持ちを、ただただ表情に浮かべてみる。
本当にそうなる日が来るかどうか、それすらも分からないけれど‥‥。
それでも、今在る事は全て大事にしたい。
「——下の方々に、出掛けると言ってきますね」
彼が返事の代わりに、ふっと笑って部屋を出て行った。

私も寝台から起き出し服を着ながら、ちょっと思った。
――少しお風呂に、入らせて貰おう。
一人でそんなことを思っていると、何だかとても恥ずかしくなり‥‥。
昨日受け取ったまま使わず置いていた、ふかふかのタオルに火照る顔を埋めながら。

ーーやっぱり今、私は‥‥間違いなく幸せだ。
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