表記について

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6

自宅の中の掃除は、そんなに長い時間もかからなかった。
私が箒で床を掃いていると、アツシさんが物を動かしたりしてくれた。
そして拭き掃除をする間も。バケツの水を替えてきてくれたりしてくれた。
元々、そんなに汚れていた訳では無いけれど‥‥。
少しでも寛いで貰うために、部屋の中を綺麗にしたくて。
‥‥でも、手伝って貰ってしまっては、元も子もないかも‥‥なんて、途中で思いながら。
それでも、彼とちらとでも目が合えば、微笑んでくれるのが嬉しくて。
それに、一緒に何か出来るのが嬉しくて‥‥。
つい、全てやりきるまで手伝って貰ってしまった。
旅に出る前よりも綺麗になったであろう、埃を全て払えた室内を、ほっと見回す。
「‥‥終わりましたね」
アツシさんも、ほっと息を吐きながら外から帰って来た。
水を捨てて空になったバケツを、部屋の端に置く。
「‥‥はい、ありがとうございました」
彼の方を振り返り、短くお礼を言った。
少し申し訳ないような気持ちもあって、声が小さくなってしまったのだけれど‥‥。
彼は、いえ、と柔らかな微笑みかけてくれた。
それが有り難くて、小さく首を竦めながら笑みを返した。

そう云えば、彼がドアを開け閉めした際に流れ込んで来た外の風が、少し冷えてきている気がする。
窓から外を覗いてみると、少し陽が傾いてきているところだった。
そんなに長い時間、夢中になっていたのだろうか‥‥?
そもそも、イネスさんのお店でも、結構な時間ゆっくりしていたのもあると思うけれど。
「ちょっと‥‥寒くなってきましたね」
部屋の隅の、暖炉ーーと呼ぶには粗末だけれどーー火興し場へ向かう。
此処、カサディスの夜は、人気も少なく閑静である事と、浜辺なのもあって少し肌寒くなる。
日が暮れ始めると、皆、それぞれの家で暖炉を囲んで過ごす。
私も以前、旅に出る前までは、夜に外を出歩く事は無かった。
「今、火を点けますね」
しゃがみ込んで、近くに少し積んであった薪をくべ、火を興そうとして‥‥。
ふと、思い起こす。
「‥‥そうだ、アツシさん」
「はい?」
「ちょっと、待って居て貰えますか?」
そう云えば、ベニータさんが、後でまた薬を分けてくれると言っていた。
そろそろ此の包帯も、巻き換えないといけないかも知れない‥‥と、伸ばした腕を見て思い出した。
彼に、腕を見せながら提案してみる。
「お薬と、あと‥‥」
「ああ、そうですね」
「ーーパブロスさんの‥‥隣の宿へ行けば、お風呂に入らせて貰えると思うんです。どうですか?」
「‥‥え?あ、はい‥‥」
彼は少しきょとんとしたような表情で、けれどすぐ笑顔になって頷いてくれた。
今日は忙しくもさせてしまったし、それに、此処に居る間は、彼にもゆっくり過ごして欲しくて。
ただ、それだけだったのだけれど‥‥。


「ーーああ、どうぞ。‥‥お二人、一緒に入るのかい?」
宿の番台に居たパブロスさんに訊いてみると、そういう答えが返って来た。
「‥‥ち、違います‥‥!じ、順番で結構です‥‥」
慌てて、思わず手を振りながら否定した。
「‥‥はいはい。空いてるから、好きに使ってくれていいよ」
「ありがとうございます‥‥」
お辞儀しながらお礼を言い、何と無くアツシさんの方を振り返る。
「——アツシさん、あの‥‥」
「‥‥‥っ」
ーーパブロスさんはともかく。
アツシさんまで、僅かに肩を揺らして小さく笑っている。
ほんのり上目に、抗議の視線を向けてみると。
「‥‥すみません」
そう、謝りかけながらも、やっぱり少し笑っている。
けれどすぐ、彼は玄関先のドアの方へ向かい‥‥。
「私が、薬を貰って来ます。どうぞお先に」
そう言い残すと、もうすっかり日が暮れて暗くなった外へと出て行ってしまった。


そうしてやがて、順に入浴も済ませた私達は、また自宅へと戻って来ていた。
お茶を煎れようと、鉄瓶をかけた薪の火が揺れる傍で、それぞれ椅子に腰掛け‥‥。
汚れを落として清潔になった腕の傷口に、改めて彼が膏薬を塗ってくれている。
片手で私の腕を取り、もう片方の手でゆっくりと、薬を塗りつけてくれる様をじっと見ながら。
間近で、そうした光景を見ていると、少し緊張しながらも‥‥彼の優しい手つきにほっとする。
薬を塗り終えた後、包帯を丁寧に巻き付けてくれる仕草に、そして火に照らされた穏やかな顔に思わず見惚れる。
「‥‥これで、大丈夫でしょうか」
呟くような言葉と共に彼が視線を上げ、不意にすぐ近くで目が合った。
「‥‥‥!」
作業をしてくれていたのだから、顔を上げた彼が真顔である事は当然だ。
けれど、改めてどきりとしてしまい、一瞬答えが返せない。
「‥‥?まだ痛みますか?」
「‥‥あ、はい。い、いえ、大丈夫‥‥。ありがとう‥‥」
最後の方は、声が消えかかっていたかも知れない。
不自然な程慌ててしまう私に、彼が小さく微笑う。
「‥‥セツナ」
目を合わせたまま、彼が私の腕をそのまま引いた。
「‥‥あ‥‥」
彼の胸の内に引き寄せられ、腕が背中にふわりと回される。
「さっきも、思いましたが‥‥」
「え‥?」
「‥‥可愛い」
こめかみのあたりで優しく囁く声に、じわりと頬が熱くなる。
「‥‥」
火の傍で身を寄せているから、というのもあるだろうか‥‥などと、目の端に映る光景に意識を移しながら。
ーーこういう時、どうすればいいんだろう?
きっと‥‥ありがとう、と言うのも変だ。
どうしたものかと、つい困ってしまう私に。

彼の体が少し離れ、柔らかな笑みを湛えた顔が覗き込んで来たかと思うと‥‥。
一瞬、そっと唇が重なっていた。
「ーーセツナ」
すぐに離れた彼の表情は、今度は眼差しがとても穏やかで。
けれど、とても‥‥真剣で。
「‥‥はい‥‥」
その視線から目を逸らせず、促されるように小さく答えた。

そんな私に対する、更なる彼の答えはーー。
もう少し強い、そして優しい、口付けだった。
「‥‥‥ん‥」
それと共に、何か囁いていた‥‥けれど、深くなっていくその行為に紛れて、分からなかった。
頬が熱く火照るのはーーきっと、暖炉の火のせいだけではない。

私の顔も、さっき見た火に照らされた彼のように‥‥朱く染まっているのだろうか‥?
そんな考えが浮かびながらも、けれどすぐにーー分からなくなる。

外はきっともう、肌寒い筈。
けれど今は‥‥背と後頭部へと回された彼の手と共有する心地よい温もりに、身を任せていたい。


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